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混沌から逃げる

更新日:2022年6月6日

すこし、余白ができた。 なので、日常的に言葉が浮かんでくることがある。 他にも記憶がイメージでいきなり浮かぶこともある。 京都に住み始めて、早くも半年が過ぎて、ご近所付き合いが増えた。 元々は東京から家を探している時に、同級生が良く行く場所だったのと風景が気に入ったので家を決めた。昨年は東京に足繁く通っていたので、京都に住んでいる実感はそんなに湧かなかったけど、猛烈な寒さと雪の美しさと都会から逃れた静けさと澄んだ匂いでふと「あれ、ここが今私の住んでいる場所か」と認識する。 住み始めて数ヶ月で近所の子供達が家に遊びにくるようになった。東京に住んでた頃は近所に子供達がたくさん遊んでいたけど決して家にくることはなかった。 去年の7月に自宅を解放して個展をした時、昼間に外で子供達が遊んでいたから、窓を開けて 「今ちょうど絵の展示をしてるから良かったら遊びにおいでよ」 と声をかけたら結構不振がられて「お金入りますか?」と言われたから「そんなものいらないに決まってるよ。」と言っていたら数分後に4人の女の子たちが恐る恐る家に入ってきた。毎日人が来てくれていたのでたくさん差し入れがあったから「よかったら食べる?」というと全員が声を揃えて「いいです、遠慮します。」と答えた。 すこし寂しかった。そんな記憶がパッと出てくるのは今の近所に住む子供たちの乱雑さからだ。 一旦家に入ることになれたら、お菓子をくれだの、工作させろだの、あれちょうだい、これちょうだいの連続。今日は仕事だから無理だと言っても家に上がってくる。どういうことなんだ。 片付けをしなかったりする時はちゃんと私も伝えるし、甘やかすつもりは全くない。でももしかして子供ってこういうことは自然なのかも?と思って、東京のあの感じは一体なんだったんだろうと思い出した。だいぶ警戒されてたような気がする。確かに、東京は人も多いし、いろんな人がいる。子供たちだけで通学するだけでもまだ安全な国なのかもしれないけど、そんなふうにいろんな人を警戒しながら生活するってなんだか辛いよ。 こっちでは自然と人と人が助け合う日常がある。何か足りないものや困ったことがあったら相談できる。そして感謝するし、何かお返ししたいなと思う。そうやって人って生きていけるんだよね? ざっくばらんだけど、そんなふうに色々な人が生きていけたらいいのに。と思う。でもそれって当たり前じゃないんだろうな、人と接したくない人もいるよな。傷ついた人も、自分の意見が言えない人もいるよな、とも思う。最近は毎日コミュニケーションのことを考えていて、どうしてこんなにもシンプルなのに、届かないことや分かり合えないんだろうって頭を悩ませている最中、ドライブ・マイ・カーをみた。ドライブインマイカーだと思っていて、いかに思い込みが激しいかを知る。 そんなに好きな話ではなかったし、役者が無に近いというか、テキストの上で動いているようにしか見えないシュールさも好きではないんだけど、それも狙い?かとも思えたり。原作読んで無いから単純に映画観た感覚だけで言うと、とにかく言語という手段を信じていない監督なのかしら…むしろコミュニケーションとか演技とか、嘘とか本当とかわからないよねって。うん、それはわかります。すごく。でも、なんだろう違和感があったんだよな。まず、信じてないというか。それでどうやってコミュニケーション取るの?確かに相手が何を思っているかなんてどんな人間かなんてわからないよ。映画見ても結局解決せず、なんだか寂しくなりました。評価を受けているのはもちろん知っているけど、作品について自分が思うことを話してもいいよね。なんだかどんどん自分の考えを簡単に世の中に出せなくなっているような風潮があって、それも寂しいよ。 そう、私は寂しいということが言いたいのかもしれない。 次、どんな作品を作ろうかなって案はたくさんあるんだけど、こっちに移り住んで見えてきたものを形にしたいと近々すごく強く思っているんです。


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